【活動報告】「じぶんらしく生きる」とは? 大学生からのインタビューで再認識したこと
こんにちは、合同会社じぶんらしくの藤嶋です。
先日、私にとってとても意味深い体験がありました。それは、ある大学生に「じぶんらしく生きる」ことについてインタビューを受けたことです。彼女の大学の卒業論文に使うそうで、私たちの会社名「合同会社じぶんらしく」にもぴったりなテーマに、あらためて深く向き合うことになりました。
そこで、私なりに「じぶんらしく生きる」とはどういうことなのか、じっくりと考えてみたことをシェアしたいと思います。そうそう、シンガーソングライターとして歌うことも「じぶんらしく生きる」大切な一部だと感じています。
「内面」と「外面」のグラデーション
「自分らしい」とはなにか、と問われたとき、私はまず、人間の多面性を考えます。
- 外面(仮面・役割):「~すべき」
これは、社会とのつながりや、人からどう見られるかという意識。いわば、社会の中で与えられた役割や、周囲の期待に応えようとする自分です。 - 内面(本当の希望):「~したい」
これは、自分自身の生きる意味や、どう生きたいかという本質的な問いからくるもの。本当の願望や情熱がここにあります。わくわくや、喜怒哀楽といった感情とも深くつながっています。
この二つは明確な境界線があるわけではなく、実は、シームレスにつながっています。
「自分」を形作る二つの視点:他人軸と自分軸
心理学の「ジョハリの窓」でも4つ示されていますが、「自分」という存在には、大きく分けて「内側から見た自分」と「外側から見た自分」が存在すると私は考えています。
このうち「外側から見た自分」は、社会や責任と密接に結びついています。私はこれを「他人軸の自分」と呼んでいます。ここでの「他人」とは、「世間」であり、幼少期であれば「親」「先生」「友達」などが含まれるでしょう。特に小さいころは「親」の影響が大きく、「こんな子であってほしい」という親の願いが強ければ強いほど、子どもは自分の内面や本当の感情が見えにくくなってしまうことがあります。
そして、日本社会には、この「他人軸」を重視する文化が根強くあると感じます。たとえば、「世間で評価されている著名な画家の絵画だから素晴らしい」「有名企業の商品だから信頼できる」といった判断基準は、「自分がどう感じたか」ではなく、「人がどう言っているか」に依拠しているケースが少なくありません。
これは、多くの人が「自分で判断することに自信がない」「自分でなにかを選択することができない」と感じていることと関係しているのではないでしょうか。
「自分らしさ」が見えにくくなる日本の教育
この原因は、日本の教育にも関係していると、私は考えています。
日本の教育は「与える教育」と云われることがあります。先生が教壇に立ち、生徒はただ話を聞き、教科書を読み、教えられた通りに覚える。自分で深く考える機会が少ないのです。
たとえばフィンランドでは「なぜ?」と問いかけることを重視すると聞きます。「なぜ?」と問われることで、子どもたちは自分で掘り下げ、批判的思考力(クリティカルシンキング)を身につけます。これが、自分で選択し、決断する力の原動力になるのではないでしょうか。
しかし、日本では、情報を与えられ、それを暗記することが中心。「答え」は考えるのではなく「覚える」ものとされがちです。その結果、自分がどう感じ、どう考え、そのためにどう行動できるかを考える力が育ちにくいように感じます。だからこそ、「自分らしさ」すらわからなくなってしまう人がいるのかもしれません。
人生において「あなたはどう思う?」「あなたはどうしたい?」と聞かれる機会があまりないまま成人する日本では、「じぶんを大切にする」ことが「わがまま」と捉えられがちな風潮もあります。
「わがまま」と「じぶんらしく生きる」の違い、そして「社会」との接点
では、「わがまま」と「じぶんらしく生きる」は何が違うのでしょうか?
そこで重要になるのが、「社会」との接点、つまり社会での役割や責任だと私は思います。「じぶんらしさ」は、これらの社会的な側面と強く結びついているのではないでしょうか。
そして、もう一つ、私が幼いころから強く意識してきた視点があります。それは「宇宙から見たじぶん」という視点です。だれも見ていないはずなのに、なぜかバレてしまう悪事。それは「大いなる存在」としか言いようのない視点によるものだと、私は小さいころから確信していました。だからこそ、自然と「陰徳陽報(いんとくようほう)」を意識して生きてきたのです。
だれも見ていなくても、「自分が良いと思う行い」をしようと心がけてきました。それが自分の強運(不幸中の幸いがおこりがち)につながっているとも思っています。自分を反省し、過ちを悔い改めることで、その後の人生はより良いものになる。自分の望みを叶えるためには、常に内省する必要があると感じています。
「私は私をどんな私にしたいのか」。この問いは、この「宇宙から見た視点」と深く繋がっているように思います。だからこそ、人から見た自分のことも意識するのです。
「自分のことは、一番、自分がよく知っている」という見解は、実は俯瞰できていない見方だと私は思います。私たちは「自分」を外側から見ることは一生できません。私の後頭部、私の背中を、私は一生見ることができません。鏡に映った反転した自分、写真に映った自分、人から自分の印象を教えてもらうことなど、「人」を通してしか、本当の意味で自分を知ることはできないからです。
この視点を受け入れてこそ、人と本当の意味で繋がれるのではないでしょうか。心理学でいう「自己知覚」。これができていると思い込んでいる人は多いですが、手ごろな浅い部分での反省しかせずに、「本当のドロドロした自分」を見ないようにして生きる人は意外に多いものです。
でも、インタビューしてくれた大学生のうーちゃんも、そして、私自身も、この「かっこ悪い自分」を見つける旅をするのが好きです。「かっこ悪い自分」を知る人は、きっとやさしい。自分のかっこ悪さや未熟さを知っているからこそ、人に対してあたたかい「情」を伴った興味を持てるのかもしれません。
「じぶんらしく生きる」ための3つの柱と「責任」
そして、「他人軸の自分」と「自分軸の自分」のバランスを取るうえで、「役割」と「責任」が非常に重要だと感じています。私自身も「じぶんらしさ」を追求するために、むしろ「役割」や「責任」を強く意識して生きてきたような気がします。
「じぶんらしく生きたい」と思った最初のきっかけは、皮肉なことに、子どものころ親が「他人軸」ばかりを求めてきたことでした。母がそれを求めれば求めるほど、私自身は「自分はどうありたいのか」を強く求めました。母は「感情を出すな」とよく言っていたのですが、「感情」こそが「じぶんらしさ」のバロメーターではないかと私は思うのです。だから、私が思う「じぶんらしく生きる」には、「感情」を大切にすることも含まれます。
幼少期から周囲に「変わってるね」「普通じゃないよね」と言われるたびに、子どものころは不安になりましたし、普通になろうと試みたこともありました。でも、それは難しかった。だからこそ、中学時代から毎日、日記をつけ、おこったできごとと感情、感想を書いては、客観視して、悔い改めて、自分をアップデートして生きてきました。そのなかで、いつも「私は私を大切にしたい」と思ってきたことが、「じぶんらしく生きる」ことに繋がってきたのだと思います。
部活や仕事があまり長続きしなかったこと、楽観的にノリで(最初の)結婚をしたこと、そんなだからやっぱり離婚したこと、シングルマザーなのに大手企業に就職しようとしなかったこと。これらは全て、私の経験、トラウマ、そして、特性などと深く関係しています。世の中の常識では変わっていると言われる生きづらい自分を、どう活かすことができるか。常にそれを考えてきたように思います。
そうして、今の私ができあがりました。
いま、私が考える「じぶんらしく生きる」とは、
- じぶんらしさを知る・大切にする
- 自分の特性を活かす
- 望んだ環境を手に入れる
ということ。
そして、この「じぶんらしく生きる」というシーソーの反対側には、もしかしたら「責任を果たす」「社会に貢献する」という重しがあるのかもしれません。
今回のインタビューを通して、私は「じぶんらしく生きるため」にこそ、「母親業」「仕事」をがんばってきたのかもしれない、と強く感じました。うーちゃん、いい機会を与えてくれてありがとう。
