【活動報告】「発達障害」を考える活動をしました

こんにちは。合同会社じぶんらしくの藤嶋ひじりです。
毎年4月2日は「世界自閉症啓発デー」。この2日から8日までを「発達障害啓発週間」として、自閉症や発達障害への理解を深める期間としているそうです。私や、私の娘が発達障害と診断を受けていることから、今年はこの期間にぜひ、啓蒙活動をしたいと思い、二か所のコミュニティ「knocks!horikawa」「はうす結」に相談したところイベントが実現しました。

まず、「発達障害」とは、政府広報オンラインによれば、「発達障害は、広汎性発達障害(こうはんせいはったつしょうがい)、学習障害、注意欠陥多動性障害など、脳機能の発達に関係する障害です。発達障害のある人は、他人との関係づくりやコミュニケーションなどがとても苦手ですが、優れた能力が発揮されている場合もあり、周りから見てアンバランスな様子が理解されにくい障害です。発達障害の人たちが個々の能力を伸ばし、社会の中で自立していくためには、こどものうちからの「気づき」と「適切なサポート」、そして、発達障害に対する私たち一人ひとりの理解が必要です。」と書かれています。

私の場合は、学校でも仕事でもたくさんの失敗をしてきましたが、それが、発達障害と診断された周囲の人とあまりにも似ているので、心療内科で診ていただいたところ、ADHD(注意欠陥多動性障害)と診断されました。

多動というのは、行動の多動もあれば、脳内でひたすら考えごとをし続ける多動もあります。女性の場合、おしゃべりが止まらないという方もおられませうが、行動としては多動に見えな人も多いようです。過去の多動のイメージは教室で、男子が授業中に歩き回るようなイメージがあり、「そうではないならばADHDではない」という認識の学校の先生も多かったです。

私たちの世代であれば、尚更のこと。理解もサポートもありませんでした。ただただ、「忘れ物が多い」「先生の話をちゃんと聞いていない」「不注意で怪我や火傷が多い」という側面で大人に叱られてばかりいた気がします。

発達障害は、捉え方も、それぞれの精神科医、臨床心理士によって異なります。多数の当事者の相談を受けてきて思うのは、「親子関係」を含む、生育環境に大きく左右されて「障害」と本人が感じる濃度が違うということです。

例えば、第二次世界大戦のころに生まれた世代を親に持つ、私たち50〜60代は、家父長制度の名残りと戦争の影響により、歪な親子関係で育った親たちのため、半数以上が機能不全家庭という説もあるほど、いわゆる「毒親」と呼ばれる支配的な親に、必要以上に規制されて罵倒されて育ってきた世代ともいえます。

そのため、自分が親になると、その子どもたちには、極端に甘やかしていたりします。親にしてもらいたかったように、「個性」を尊重し、できないことを叱るのではなくサポートしてしまう。

「寄り添い系」の親によって甘やかされて育ってしまった、20〜30代の「発達障害」の子どもたちは、いい意味での「厳しさ」も経験できていません。自分で挑戦することをあきらめてしまっている発達障害の人も多く見受けられます。たとえば、小学生の6年間、忘れものをしないように親が時間割を合わせていたなど、親が寄り添い過ぎることで「挑戦する機会」を奪っているパターンも多々見られます。

また、当事者をとりまく「社会」にも問題があります。高度成長期に効率や利便性を突き詰めた結果、一言もしゃべらなくてもスーパーやコンビニで買い物ができるなど「コミュニケーション」の学びの機会も減っています。私たちが小さいころは「たまごを5つください」「ほうれん草を1束と、にんじんを一盛りください」と、店の人にしゃべらなければ買い物ができませんでした。こうした社会にも原因があると思います。

また、「教育」にも問題があります。長年、画一化教育、与える教育(先生が一方的に教壇から情報を与えてそれを記憶する)をしてきた日本の教育にも原因があると考えられます。この点でのわかりやすい記事は、過去の取材記事左京変人図鑑をご覧ください。京都精華大学前学長ウスビ・サコ氏のインタビュー記事がおすすめです。保育士から就職情報誌の編集者を経て、日経BP社や小学館の教育雑誌の記事を書くライターをしていた藤嶋にとっては、こうした教育システムによる弊害でもあると常々感じてきました。

「みんな同じ」はずである。
「みんな同じ」でなければならない。
そうではない人は「障害者」となる。

発達障害というものは、「全員が同じように発達する」=「定型発達」という基準と比べて、同じではないことから、生きづらさにつながってしまうもの。つまり、相対的な障害であるわけです。

そもそもの、この社会にとって「障害」なのであって、そうではない「社会」があれば、そこでは障害にはならないのではないか。たとえば、ベーシックインカム※が日本に導入されれば、もしかしたら、「障害のある人」は減るかもしれないとも考えられるわけです。

また、「診断」の捉え方についても、心理学の「質問紙法」の限界についてもお伝えしました。質問による診断は、古く、精神科医で心理学者のユングが用いた手法で、この手法によって「タイプ論」を提唱したわけですが、そのユング自身が、「タイプ論」という書籍のなかでこう書いています。

「人間は誰でも二つのメカニズムを、すなわち内向と外向のメカニズムを備えているのであり、ただどちらか相対的に優位な方がその人のタイプということになるに過ぎない。」(タイプ論/C.G.ユング著)

つまり、内向と外向どちらも一人の人間のなかにあり、一時的に「優位になる傾向」について測るものであって、その人がその傾向が「固定されるもの」「一方しかないもの」ではないことを、ユング自身が伝えていると理解してもらいたいのです。内向的な人に外向的な一面を見て驚く人がいますが、どちらも持ち合わせているもの。

発達障害も同じで、ASD(自閉傾向)の人にもADHDの側面があり、ADHDの人にも、こだわりや過集中が見られる。どちらかだけの側面しかない……ということはない。この説についても、まだ、見解は精神科医や臨床心理士によって異なるようですが、私は、ユングの見方をしっかり持っているべきだと考えています。

ゆえに、大切なのは「目の前のその人」をしっかり見てあげること。話を聞いてあげること。「ADHDと診断された家族にどう対応したらいいかなどの相談を受けますが、「ADHDだから」と「対応」に「正解」があるわけではない。……と伝えたくてお話をさせてもらいました。

今回の会場のひとつ「はうす結」の運営社の一人、上西幹子さんは、ダウン症の結子ちゃんを保育園に預けているとき、保育士さんが「ダウン症の子は筋力が弱いから歩けない」と決めつけて、さんぽのときにすぐに抱っこすることを疑問視していました。母として、運動させて育ててきたので、結子ちゃんの脚力を知っているから「歩かせてください」と伝えるのに、保育士は「知識」としてダウン症を知っているからこそ抱っこする。せっかく運動できるからだづくりをしてきた母としての嘆きを知り、元保育士としても、発達障害の子育てをしてきた身としても、とても考えさせられました。

こうした「発達障害」という言葉自体が、いつか消えてなくなるような「社会」があったならば、本当に「それって『個性』だよね」として受け入れられるのかもしれません。

いまは、学校でも会社でも「同じであること」を求められる。そこについていけないこと=障害とされる。でも、そのそもそもの「社会」を疑問視する声が集まれば、もっと、のびのびと自分の特性を喜び、活かせる方法を見つけやすくなり、「発達障害」とされる「特性」を楽しく受け入れて「戦略」を考えることができる気がするのです。

そんな発達障害の捉え方について、当事者として、家族としてのお話をしました。元・小学校教諭の方や、臨床心理士さんにコラボをしたいとおっしゃっていただけているので、今後の展開にもご期待ください。

※すべての人が一定額の現金を国から定期的に受け取る制度。年齢、所得、就業状況などに関わらず、誰でも無条件で支給されるのが特徴。

【knocks!horikawa】商店街のなかにある居場所スペース。ゆるく気軽に集える場。

京都市上京区堀川商店街にある、子どもたちの学びの場とまちのシェア型図書館が一つになった新しいスペースです。だれもが、何歳になっても、よりよく生きるために必要な学びアート。この3つをキーワードに子どももおとなも世代を超えて交流する場所です。この場所が、「自分らしい選択肢に出会う場」になることを目指しています。(公式サイトより)

【はうす結】土間を囲んだ縁側でおしゃべりできるスペース。路地奥の古民家をリフォームした隠れ家的な場所も魅力。

障がいある無しに関係なく、赤ちゃんから高齢者まで、み〜んなが、ごちゃまぜに混ざり楽しく学び過ごせる場所作りを目指しています🏡✨ みんな違ってみんないい💕 同じ想いの仲間募集中♪(公式Instagramより)月・水・毎月25日にオープン。

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